たくま’sBlog

遠い懐かしさを感じさせる、得がたいもの、失われたものなどに対して、心惹かれ、思いを馳せ、憧れや恋しさを抱くことなどを書き綴るブログにしたいと思います。

「標題音楽」とやら


辻井伸行 / ドビュッシー:月の光

 作曲家が創作するにあたって自分の感情なり、印象なり、思想なりを個人的・主観的に強く前面に押し出した作品を標題音楽というが、たとえば「月の光」という標題を知ったうえで聴けば、「おお、なるほど”月の光”みたいなところもないではないな」と感じる。しかし曲をはじめに聴いてこの標題を言い当てることはまず不可能だ。この曲を聴いて、元気が良いとか、勇壮だとかいう人のいるはずもなく、たいていの人は静かで柔らかく優美だと感じる。「月の光」と具体的に言葉で表現することはまずできない。

 それほど音楽の描写、暗示力はいい加減で、頼りにならない。これは文学や絵画と大きく違う点。しかしそれ故に、あらゆることを描かしめイメージを浮かばせる。音楽は人間の情緒・風土・風景・人生・物語・印象・季節・思想など、およそ人間の感情と生活の全般を暗示することができる。

 またこの標題とはトリックのようなものでもあって、「月の光」として聴くという「制限」がついてくる。以前、どこかの誰かがテレビで歌謡曲の歌詞にいたく感激し「目に浮かぶようだ」と言っているのを聞いた。歌謡曲とて、あくまでも音楽以上のものでなく、音楽以下でもないことを忘れたくない。標題によって音楽を理解するのでは本末転倒で、標題音楽も音楽そのもの、音の組合わせ、積み重ねによる構造物と変わらない。歌詞に誘われて音楽に近づいた人も、やがて歌詞を離れ、つまり「制限」を離れ音楽そのものとして楽しむことができるようになるのが望ましいといえる。

 要するに、標題はアペリティフみたいなものであって、それに惹かれて近寄ったら料理そのものがおいしかったというのが好ましい。しかし、何も強いて標題を心の中から追い出す必要はなく、音楽そのものと標題の間を気持ちの中で往復したり、また重ね合わせてみることもできる。

 また反対に、音楽から「月の光」の意味を深めることもできるはずで、例えば月を眺め「月の光」を知らない人よりも知っている人の方が、なにがしか豊かな心で月を眺めることができ、またその他の標題語に対するイメージも知っている人の方がよほど豊かであることは間違いない。こういう形で、音楽という芸術は生活を豊かにすることが可能である思う。

 


スメタナ 連作交響詩 『わが祖国』 から、ヴルダヴァ(モルダウ) ピエロブラーヴェク

 

 フルートソロが細かく早く動き出し、やがてフルートは二本になり、さらにクラリネットが加わる。いかにも水がチョロチョロ瀬音が流れ、岩に急かされ急流を轟音を立てて流れるさまが見えるようで、北海まで流れて、海へ出たら太陽に照らされ蒸発し、雲になって雨と降って、また水源に戻りを繰り返す輪廻転生を想像させる。

音楽がリズミカルになったところ、田舎の結婚式の場面、滔々とした流れがあって狩りのシーンにつづく。

 

 

   ・情緒(悲愴、熱情 ベートーヴェン)
 ・風土(スコットランド メンデルスゾーン、スペイン交響曲 ラロ)
 ・風景(フィンガルの洞窟 メンデルスゾーンモルダウ スメタナ)
 ・人生(幻想交響曲 ベルリオーズ英雄の生涯 シュトラウス)
 ・物語(魔法使いの弟子 デュカ、ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら シュトラウス)
 ・印象(亜麻色の髪の娘、海 ドビュッシー)
 ・季節(四季 ヴィヴァルディ―)
 ・思想(ツァラトストラはかく語りき シュトラウス)

 

  •  「音が何を言っているのかわからない、だから歌詞を読んでわかる」音の力を信じない人。
  •  「チン」は何の音?電子レンジの「チン」、言葉で電子レンジと説明すればわかる。音で表せはそのまま「チン」でぼほぼわかる。
  •  ノーベル文学賞を受賞した音楽家(わたしは批判もくそもない、ただそんなこともあってしかりと思うだけ、これ以上は( ̄b ̄;))