たくま’sBlog

遠い懐かしさを感じさせる、得がたいもの、失われたものなどに対して、心惹かれ、思いを馳せ、憧れや恋しさを抱くことなどを書き綴るブログにしたいと思います。

絶対音楽、とやら・・・

        窓を開け星降る夜空に大きな吐息ひとつ

            寒っぶーッ=3

        

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小菊ー朱鷺色八重


チャイコフスキー 弦楽四重奏曲第1番ニ長調作品11 第2楽章《アンダンテ・カンタービレ》 弦楽合奏版 バーンスタイン

 

 弦楽四重奏など題名のない、曲名しかない音楽をいうけれど、「ピアノ協奏曲第22番~」だとか「交響曲第1番変ホ長調」云々。こんな素気のなさは、芸術といわれるほかの分野では稀で、たいてい「暗夜行路」とか「ドン・キホーテ」とか題があり、意味ありげに手招きする。「小説第1番」とか「絵画22番」というものはない(ようだ)。

 それがどうして音楽では起こるのか。文学なら人生なり、生活なり、人間なりを書き、絵画なら生物とか自然を描く。対象がある。音楽でも標題音楽となれば、物語や風景を暗示し、その感じを出すように仕組まれていて、にぎやかに名前がつくが、絶対音楽では音楽以外の特定の何かを反映しようとしない。つまり、何物にも依存せず、束縛もされない音楽ということで、曲名も味気ない愛嬌のないものとなって第何番という番号だけということななる。芸術一般の在り方という点からすると、標題音楽の方が他芸術と共通する面が広い。絶対音楽はほかの芸術にない音楽独特の性格を持っていることになる。
 標題音楽は、個別的、具体的、喜びにしろ悲しみにしろ何かしら具体的、私の喜びであり私の悲しみ、イメージがしやすく具体的だから何やかやと勝手におしゃべりできる。それに対して絶対音楽は、一般的、抽象的、私の喜び悲しみというより、隣人、ひいては人類愛といったところまでいく。それというのも、標題という手掛かりがないから、人それぞれその音の感じ方が自由で、宇宙、存在、時間、運命、生死といった、とてつもなく広く包括的な観念も呼びおこす。この音楽の魅力なりを言いたくとも最後は「音楽は言葉が終わったところから始まる」などというざるを得ないということになったりする。
 なので、音楽の魅力を語るより人を見ろと、結局チャイコフスキーがどんな人物で彼が好きかどうかというところへ行きつく。